宇喜多秀家とおにぎり





宇喜多秀家とおにぎり

 

関ヶ原合戦で西軍に付き、戦後、八丈島に流された宇喜多秀家。

 

 

かつては豊臣家五大老のひとりとして重要された人物ですが、全てがひっくり返ったのが関ヶ原合戦と言ってもよいでしょう。

 

 

関ヶ原の後、秀家は薩摩の島津家にかくまわれていたのですが、西軍の主力として活躍していた人物だけにウワサも広がり、遂に隠しきれなくなり幕府へ出頭。

 

 

その後、八丈島に流されました。

 

 

今日はその八丈島でのエピソード。

 

 

秀家が八丈島に流されて数年後、二代将軍・秀忠の時に江戸から八丈島に赴任してきた代官・谷庄兵衛が秀家を陣屋に招き、食事を振るまった時のこと。

 

 

いくつもの膳が出て最後に秀家の前に3つの握り飯が出されましたが、秀家はそのひとつを食べて、残り2つを懐紙に包んで持ち帰ろうとしました。

 

 

谷庄兵衛は、

 

 

『なぜ食べないのですか?体調が悪いのですか?』

 

 

と、心配して秀家に尋ねました。

 

 

すると秀家は、

 

 

『八丈島ではこの様な米の握り飯を食べる機会は少ないので、家臣に食べさせてやりたいと思い、持ち帰ろうと思います』

 

 

と、答えました。

 

 

 

 

 

 

そうなんです。

 

 

当時、八丈島では米があまり採れなかったらしく、ごはんは明日葉をはじめ雑穀米だったんです。

 

 

そこに本州から送られてきた米だらけの握り飯でしょ?

 

 

秀家は感激し、家臣達にも食べさせてあげたいと思ったんですね。

 

 

この話を聞いて、谷庄兵衛は後に秀家に米二俵を送ったら、秀家は感激して宇喜多家に代々伝わる【内朱(うちあか)の盆】を庄兵衛に贈りました。

 

 

ちなみに一説によると、家康の死後、秀家は恩赦により刑が解かれ、本州に戻る機会がありましたが、あえて八丈島に留まったという説もあります。

 

 

その後、八丈島で83歳という長寿を全うした秀家。

 

 

後に秀家と共に流刑となった長男そして次男の子孫が八丈島で血脈を伝えて、後に分家が3家興り、本州に戻った家系もあるそうですが、今でも子孫の方が八丈島で宇喜多家の墓を守っているそうです。

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