天正遣欧少年使節団の少年たちは帰国後こうなった!
本能寺の変が起こった天正十年(1582)に海を渡ってヨーロッパに向かった4人の少年たちがいました。
これが後に天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)という少年たちです。
彼らは九州のキリシタン大名である、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らの名代としてロ―マへ渡った少年達の事で、いったい何のための使節だったのか?
発案者のアレッサンドロ・ヴァリニャーノによると、
- 第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
- 第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたい。
以上の理由で派遣を発案しました。そして四人の少年達が選ばれます。
その名前は、
- 伊藤マンショ
- 千々石ミゲル
- 中浦ジュリアン
- 原マルティノ
モチロン、彼らだけではなく、複数の神父や修道士達も同行した旅でした。
(※以下は年号に注意して読んで下さい)
天正十年(1582)、2月2月20日に長崎を出た彼らは、二年半後の天正十二年(1584)8月10日にポルトガルの首都・リスボンに到着します。
そしてロ―マ皇帝・教皇に謁見。
たいそう喜ばれ、市民権まで与えられます。
その後は様々な式典に出席、天正十四年(1586)に帰路につきます。
途中インドのゴアに立ち寄り、ヴァリニャーノに再会したり、原マルティノの演説が行われたりで、余裕の帰路でした。
そして天正十八年(1590)7月21日、長崎へ無事戻ってきます。
実に8年5ヶ月ほどの長旅を完結できたんですね。
しか〜し!!
この8年5ヶ月の間に、日本は大きく変わっていたのです。
まず、出発前にはキリシタンに理解のある織田信長が生きていましたが、帰ってきたら豊臣秀吉が天下を治めていました。
しかも秀吉によって、キリシタン禁教令が出ている始末。
さらにこの使節団をバックアップした大友宗麟・大村純忠がすでに亡くなっていました。
出発する時は、ある意味、日本の未来を背負っての旅でしたが、帰ってくると邪魔者扱いになってしまったんですね。
しかも禁教令が出ている以上、今のままのキリシタンでは生きていけません。
ここで四人の運命も分かれました。
ます、伊藤マンショはマカオへと渡り、頑張って司祭となり日本へと戻ってきましたが、追放に追放が重なり、長崎で死去。
千々石ミゲルはキリスト教を放棄。
中浦ジュリアンは弾圧を逃れ、活動していましたが捕らえられ殉死。
原マルティノは追放先のマカオで亡くなります。
時代の流れに翻弄された4人の少年。それぞれ亡くなった時はもう少年ではありませんが、なんとも悲しい結末でした。
しかし彼らの活躍は現在でも語り継がれ、日本だけでなく、もちろんローマにも名前が残っています。
もしも本能寺の変が無かったら…彼らの人生も変わっていたでしょうね。
かつての天正遣欧使節団の4人の少年たちの銅像が、長崎空港に渡る橋の前にあります。
まあ、ここから異国に渡ったワケではありませんが、希望を胸に出国する彼らの銅像は、歴史の結果を知っていると、どこか悲しく見えてしまうのは私だけでしょうか?
もし今の世の中みたいに、宗教の自由が保証されていた世に彼らが生まれていたら…
なんて考えるのも歴史のIFでしょう。
もしあなたが長崎空港から飛行機に乗る時、空港島に入る前に建っている4人の銅像をチェックしてみるのも良いかもしれませんね。
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