剣豪将軍ってどんな人?





剣豪将軍ってどんな人?

剣豪将軍,足利義輝

 

 

あなたは【将軍】と聞くと、どんなイメージがありますか?

 

 

将軍のイメージが強いのは、権力に任せて政治を行ったり、時にはワガママを押しとおしたりというものだと思います。

 

 

しかし【剣豪将軍】という、剣の達人だった将軍がいました。

 

 

それが名前は足利義輝(あしかがよしてる)。

 

 

室町幕府の第13代征夷大将軍で、足利義昭の兄です。

 

 

天文五年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として誕生。

 

 

しかし世は戦乱の真っ只中。京都を追われ、逃げ延びた近江(現・滋賀県)にて11歳で将軍職に就きます。

 

 

その後京都へ戻ったり、また逃れたりの繰り返しで、腰をすえて政治に取り組むことはほとんどありませんでした。

 

 

そんな彼は当時幕府を牛耳ろうと目論んでいた、松永久秀&三好三人衆に攻められて自害するのですが…その最後がスゴイ。

 

 

永禄八年(1565)5月19日、謀反を起こした松永久秀&三好三人衆の軍勢が、二条御所に攻めてきます。

 

 

剣豪・上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝(つかはらぼくでん)に奥義を伝授された義輝。

 

 

刀を数本畳に刺し、刃こぼれしては刀を代えて、攻め寄せる敵兵を斬りまくったそうです。

 

 

この時の奮戦の様子は、ルイス・フロイスの【日本史】にも記載されています。

 

 

鎌倉〜江戸の将軍の中で、自らの手で一番多く敵を倒した将軍は、多く間違いなくこの人でしょう。(ドラマの暴れん坊将軍除く)

 

 

しかし遂には力尽きてしまう義輝。

 

 

辞世の句は、

 

 

五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで

 

 

という野心と無念が見え隠れするものでした。

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