関ヶ原合戦後、石田三成の子孫はどうなった?
石田三成は関ヶ原合戦で破れ、京都で亡くなった事は有名ですよね。
居城の佐和山城も落城し、一族もちりじりになり、徳川方から見た逆臣・石田一族は滅亡したかにみえました。
しかし!!
石田三成の子孫と血筋は江戸時代に大名としてその後も残りました。
どういうことか?
まず、三成の次男・重成と娘の辰姫は、関ヶ原合戦当時、大坂城にいました。
この二人を東軍側として戦った東北地方の雄・津軽為信が大坂城から連れ出し保護していたのです。
その後、為信は関ヶ原合戦時の功績を認められ、津軽藩の初代藩主になりますが、重成を【杉田源吾】と改名させ、自分の領内に住まわせます。
そして【杉田源吾】の子孫は、津軽藩の重臣として江戸時代を生き延びました。
一方、辰姫はというと、為信の次男でやがて津軽藩主になる津軽信牧の側室となり、三代藩主・信義を産みます。
こうして津軽家を通して三成の血は後世まで受け継がれていったのです。
しかしなぜここまで津軽為信が三成の子孫を保護したのかというと、それは三成への恩返しの意味もありました。
豊臣秀吉が東北地方を討伐しようとしていた時、三成の計らいで津軽氏は討伐を免れただけでなく、領地をも安堵されました。
なので三成の死後、この事が三成の子孫を助けるキッカケになったのです。
ちなみに明治維新後も三成の子孫は残り、現在に至ります。
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