関ヶ原合戦後、石田三成の子孫はどうなった?





関ヶ原合戦後、石田三成の子孫はどうなった?

関ヶ原合戦後、石田三成の子孫はどうなった?

 

 

石田三成は関ヶ原合戦で破れ、京都で亡くなった事は有名ですよね。

 

 

居城の佐和山城も落城し、一族もちりじりになり、徳川方から見た逆臣・石田一族は滅亡したかにみえました。

 

 

しかし!!

 

 

石田三成の子孫と血筋は江戸時代に大名としてその後も残りました。

 

 

どういうことか?

 

 

まず、三成の次男・重成と娘の辰姫は、関ヶ原合戦当時、大坂城にいました。

 

 

この二人を東軍側として戦った東北地方の雄・津軽為信が大坂城から連れ出し保護していたのです。

 

 

その後、為信は関ヶ原合戦時の功績を認められ、津軽藩の初代藩主になりますが、重成を【杉田源吾】と改名させ、自分の領内に住まわせます。

 

 

そして【杉田源吾】の子孫は、津軽藩の重臣として江戸時代を生き延びました。

 

 

一方、辰姫はというと、為信の次男でやがて津軽藩主になる津軽信牧の側室となり、三代藩主・信義を産みます。

 

 

こうして津軽家を通して三成の血は後世まで受け継がれていったのです。

 

 

しかしなぜここまで津軽為信が三成の子孫を保護したのかというと、それは三成への恩返しの意味もありました。

 

 

豊臣秀吉が東北地方を討伐しようとしていた時、三成の計らいで津軽氏は討伐を免れただけでなく、領地をも安堵されました。

 

 

なので三成の死後、この事が三成の子孫を助けるキッカケになったのです。

 

 

ちなみに明治維新後も三成の子孫は残り、現在に至ります。

関連ページ

戦国時代の合言葉
戦国時代の敵味方入り乱れる合戦で、どうやって味方やを見分けたのか?その判断のひとつに合言葉があります。その合言葉についての記事です。
天正遣欧少年使節団の少年たちは帰国後こうなった!
天正十年(1582)に海を渡ってヨーロッパに向かった4人の少年たち、いわゆる天正遣欧少年使節団ですが、日本に帰国後どうなったのかを調べてみた記事です。
剣豪将軍ってどんな人?
戦国時代に剣豪将軍として名を馳せた足利義輝について説明した記事です。
軍勢の中に職人や僧侶がいた理由
戦国時代の合戦中の陣中には職人や僧侶がいたことがわかっています。なぜ戦わない僧侶や職人が陣中にいたのか?それには理由があったのです。
戦国武将の初陣はいくつくらいだったか?
戦国武将の始めての戦、つまり初陣はいくつくらいだったのかという疑問を調べてみました。今回は織田信長、前田利家、毛利元就、伊達政宗そして長曾我部元親の初陣の年を比較してみました。
日本初の大砲!フランキ砲とは?戦国日本に大砲が普及しなかった理由
日本初の大砲として名を残すフランキ砲とはいったいどんな大砲だったのか?また戦国日本に大砲が普及しなかった理由を調べてみました。
お市の方って信長の妹じゃなかったの?近江の浅井氏と尾張の浅井氏
戦国一の美女といわれる信長の妹・お市の方は、最近では信長の妹ではなかったといわれていますがそれはなぜなのか?という疑問を調べてみたら興味深い事を発見しました。その記事です。
徳川家康生誕地の愛知県岡崎市に秀吉と蜂須賀小六の石像がある理由
徳川家康で有名な愛知県岡崎市に豊臣秀吉と蜂須賀小六の石像がありますが、なぜ二人の石像が三河国にあるのか?調べてみるとなるほど!と思うことを発見できました。sの記事です。
竹千代は人質ではなかった?結構厚遇されていた徳川家康の人質時代
徳川家康は子供の頃に駿河の今川氏に人質として預けられていたといわれますが、待遇面を見てみると決して人質とは言えない様な好待遇でした。では具体的にどんな状況だったのかを説明した記事です。

ホーム RSS購読 サイトマップ