日本のクリスマスは戦国時代に始まった!
クリスマスといえば今ではすっかり日本では定着したイベントです。
しかしこのクリスマス、日本で最初に行われたのは戦国時代だったことは、意外と知られていないのではないでしょうか?
日本で最初にクリスマスが行われた場所は現在の山口県。天分二十一年(1552)の事でした。
当時この地域を治めていたのは、キリシタンを保護した大内義隆。
この年、義隆によって保護されていた宣教師たちによって、日本で初めての教会堂が建設されることになり、その記念行事として、山口の祭司館でクリスマスを祝った事が始まりといわれています。
教会堂が完成するのはその三年後ですが、それからというもの、山口を拠点にキリスト教は周辺の九州へと広がっていきました。
やがて毛利元就が大内氏に代わって山口へ入ると、山口のキリスト教の広がりは衰えましたが、各地に飛び火したキリスト教は、その後も勢力を拡大。
永禄三年(1560)、桶狭間合戦の年には全国で約一万人といわれていたキリスト教信者が、天正十八年(1590)、秀吉が後北条氏を降した年には、なんと約二十五万人になっていたとか。
その後、秀吉によってキリスト教禁教令が出されますが、そうでもしないと日本はキリスト教国家になってしまっていた?かもしれないくらいの勢いですよね。
ところで最初にクリスマスが行われた天分二十一年(1552)の頃は、サンタクロース、プレゼント、トナカイなどはなく、純粋に祈りを捧げる儀式だったそうです。
クリスマスが現在の形になるのは、太平洋戦争後の高度経済成長期といわれています。
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