戦国時代の合戦は、今でいうゼッケンを付けていた訳ではなかったので、背旗や袖印などでを判断していました。
しかし敵と戦えば、それらのものも紛失してしまい、敵か味方か分からなくなることもありました。
なので【合言葉】が使われたんですね。
合戦にはこの合言葉が必要不可欠な場合が多く、小さな部隊同士の合戦ならともかく、大きな戦になるほど敵・味方の識別を誤ると、同士討ちの恐れもあったのです。
しかも夜襲や奇襲の様な隠密で迅速な作戦には、無くてはならないものでした。
では、実際どの様な言葉があったのか?
現在に伝わるものをまとめてみました。
例えば、関ヶ原合で、東軍の合言葉は【山が山】に対し【麾が麾】(さいがさい)というものを使っていたとか。
・甲斐の武田家なら【谷】と訪ねると【山】と答えるようにしていたとか。
・また近江の浅井家では、「南風吹く」といったら「攻撃」という命令で、「北風吹く」と言ったら「撤退」という意味だったそうです。
・上杉家の合言葉も伝わっており、手取川合戦での合言葉は、【山】に対して【麓】(ふもと)。
・毛利元就が厳島の合戦の折に使ったのは、【勝つ】と訪ねると【勝つ】。同じ葉なんですね。
こうしてみると様々な言葉が組み合わせてあった事がわかります。
ちなみに大坂夏の陣で大坂城が落城した時、徳川方の合言葉である【旗】を口にして、落ち延びた豊臣方の武将もいたそうです。
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